慶應大学2年生のときに父親の会社が倒産し、夜逃げをしました。大学の友人のトラックを借りて水戸に帰り、一台分の荷物を積み込んで東京に着いたのは夜明けです。その後はアルバイトをしながら学生生活を続け、選挙の手伝いもするようになりました。大学5年目のときには、自民党国会議員の事務所で数か月間アルバイトをしました。
しかし、この時にすぐ政治家を目指したわけではありません。事務所にいると、後援者からの要望が届きます。それらは、大蔵省や通産省の距離規制に反してたばこ屋やガソリンスタンドを建てたい、だとか、点数の足りない娘を私立大学に入れてほしい、などといったものでした。政治家とは法律と予算を作る仕事ですが、その周りに集まる人々は法律通りではうまくいかない人たちが多く、法律の抜け穴や権力による融通を求めてやってくるのです。
政治とはこういうことなのか、と失望しました。もっと世の中の問題を学び、解決方法を学ぶにはどうしたらよいのかと先輩に相談したところ、MRAという英国オックスフォード大学発祥のNGOを紹介されました。活動の一環として世界中を周るアジアの青年約50人のグループに合流し、ホームステイをしながら2年間で15か国前後を回りました。
まず実感したことは、人間は皮膚の色や職業、宗教が違っても、根っこの気持の部分は共通だということです。どこに行っても夫婦喧嘩があります。兄弟は妬みを持っています。嫁と姑の対立はアジアだけでなく欧米の国にもありました。だからこそ人間関係、特に身近な人・隣人との関係をよくしていくことが大切だと気付きました。
また、アジアの青年と共同生活をする中で、自分がいかに戦争のことを知らなかったかということに気づきました。香港の友人からは、彼の父親から聞いたという日本軍の残虐な行為について聞きました。また、パプアニューギニアの友人は「はとぽっぽ」の歌を日本語で歌いだしまして、両親が日本軍に覚えさせられて歌っていたのだと言います。戦争の傷跡が世代的にも地理的にも広く残っていることを実感しました。
私は長年NGOの活動に携わって来ましたが、1979年にはNGO「難民を助ける会」の立ち上げに参加しました。「難民を助ける会」では、アフリカのザンビアで援助プログラムの立ち上げも行いましたが、このザンビアで、日本政府の途上国援助を目の当たりにします。ザンビアの難民キャンプの近くには日本政府が建てた小学校がありました。そこにはなんと水洗トイレと電動黒板がついていました。その地域は水も電気も乏しいのに、です。だからこそ井戸掘りを援助していましたし、井戸掘りボランティアは自家発電機を使用していたわけです。ある友人が「なぜ水洗トイレや電気黒板をつけたのか?」と日本国大使館に聞いたところ、「予算を消化するため」という返答が返ってきました。また、包帯が不足しているので援助してほしい、と日本大使館に申し出た友人は、包帯は安くてたいした予算にならないからと却下されていました。必要な包帯は寄付されないで、必要でもない電気黒板が寄付されるのです。
ザンビアなど様々な地域の援助の現場で、日本の税金の無駄遣いが見えてきました。それまでは自分の活動が社会の役に立っているという自己満足がありましたが、それに満足しているのでは足りないと思うようになりました。他の地域では、日本政府の援助が無駄になっているどころか日本への反感を買っているところさえあるのです。これはなんとかしないといけない、という思いが、後に議員となるきっかけにもなりました。
1996年に議員になった頃に比べて、援助の精度はあがってきていると思います。政府とNGOとの交流などもさかんになり、民間セクターやNGOの意見を聞きながら政策を立てることも多くなっています。民主党政権になって、このようなことがだいぶ増えました。途上国政府に対する援助がその国の国民に届かないということも減ってきています。それでもやはりまだムダがあるのが現状で、これからも改善の必要はあるでしょう。
紛争や災害の援助に力を入れてきました。
1996年に当選してすぐ取り組んだのは、対人地雷禁止条約です。当時、日本は対人地雷を禁止していこうと国際会議で発言していたにもかかわらず、自衛隊が100万個の地雷を保持していました。
対人地雷禁止条約は当初国連で議論されていましたが、全会一致が難しく滞っていました。そこで、カナダ政府や赤十字等を中心に、まずは賛同できる国を固めて禁止条約を作ろうという動きが出ていました。日本は、防衛省が反対していたのでオタワ条約には加盟しない流れだったのですが、私はこれに取り組むため超党派の議員連盟をつくりました。自民党は当初反対していましたが、自民党の中谷元さんが賛成し、舵を切ってくれました。中谷さんは元陸上自衛官の方ですが、カンボジアでの地雷の悲惨さなどを見てこられ、禁止に向けて動いて下さったのです。これらの結果360名の署名を勝ち取り、小渕さんが外務大臣になったときに禁止条約調印への流れが強まりました。当時の橋本総理大臣も協力的でした。1997年12月にはようやく国会で採決がかない、小渕さんがオタワに飛んで調印を実現しました。
このプロセスでは、オーストリア、カナダ、ノルウェー、デンマーク、ベルギーなど外国の大使も協力してくれました。普通はあり得ない赴任国の政治に関して記者会見を行って、オタワ条約加盟を日本政府に進言したのです。NGOと議員、外国大使、メディアなどが連合して国の政策を変えたのでした。この後、実際に自衛隊は予算をつけて地雷を廃棄していきました。
その後もイラクの人質事件やスマトラ地震、パキスタンのカシミール地震、ジャワ島地震、ハイチ地震、など与野党時代・落選中も含め民主党の国際局長などとして現地に赴いて支援活動を行なってきました。
これらの時期を通して、日本の災害支援も改善が進んできています。
たとえばチャーター機の利用も行われるようになりました。カシミール地震の頃は、日本はいい機具を持っているにも関わらず、飛行機が調達できず72時間以内に到着できませんでした。そもそも、日本の緊急援助隊が海外に赴いて生きている人を救えたことはありません。72時間以内に到着できていないからです。また、ハイチ地震では、向こうの外務省とも大使館とも連絡がとれなくなったため、緊急援助隊をすぐには出せませんでした。しかし私が調査の結果として提言したことは、連絡がとれないときは、緊急援助隊を出すべきだ、ということです。連絡が取れないということは緊急援助隊が必要だという可能性が高いのです。もし要らないというのであれば途中で引き返せばいい。実際、チリ地震のときは、すぐに飛ばし、途中でチリ政府と連絡が取れて大丈夫だということだったので帰ってきました。
これに対したとえばアメリカでは、海外支援に向けて様々な想定をして役割分担などが進んでいます。ハイチ地震にしても、今の時代だとそもそも連絡がとれなくてもグーグルを使えば被害の状況が分かります。アメリカは局長レベルで決断して緊急援助隊を送り、数十人の人名を救いました。
あるいは、日本は遺体確認の方法についても問題がありました。たとえばスマトラ地震のときにも、日本政府は遺体確認の重要性を分かっておらず、家族を遺体安置所によんで確認してもらう、という方法をとっていました。しかし、国際的には家族を遺体安置所に行かせてはいけない、という考え方が主流です。DNAや歯型で調べ、最終段階で家族のもとに遺体を持って行き「間違いないですね?」と確認をとるのです。津波などを経て形が崩れている大量の遺体を家族に見せることは、精神的に大きなダメージになります。しかし、日本政府は間違いを恐れて従来の方法をとり、非難をあびました。数年前からは日本政府もようやく方法を変えるようになり、3年前のニュージーランド地震のときには日本からも専門家を送りました。
かつての国際支援は、経済力の豊かな国が乏しいところに援助する、というものでした。しかし援助の形態は変わってきています、かつての現物支給がインフラ整備へ、そしてさらに人材や産業の育成へと重心が移っています。
たとえばタイやカンボジアはかつて紛争国・途上国でしたが、今では日本企業の進出先・市場です。健全な社会づくりのための人材育成・技術移転へと、援助の質が変わってきました。あるいは先日のアルジェリア事件にも見られるように、様々な地域で紛争が多くなっています。産業育成は、紛争予防のための安定した社会づくりに貢献する援助として進められています。政府のみならず民間も含め、総合的な戦略的援助へと変わってきているのです。
こうした流れの中で、日本の企業や社会の質の良さ・マネジメント力は大きな力を発揮すると考えています。
ヨーロッパを見てみると、領土問題だらけです。たとえばドイツとポーランドも第二次大戦後もずっと領土問題が続いています。しかし、領土問題を物理的な争いにつなげてはいけない、という点では意見が一致しているのです。資源の共同開発にするのか、経済開発にするのか、二国間で取り組むのか、多国間で行うのか、と様々な手があり、その中でどれを選んでいくのかが問題になります。また、ナショナリズム的な世論を刺激しない、という点でも指導者間での共通理解があります。ドイツとフランスに至っては普仏戦争を含め3回の大戦争を行っていますが、第三次世界大戦を防ぐシステムとしてEUが成立してきたわけです。
日本と中国や、日本と韓国の領土問題についても、領土問題解決は難しいという認識を持ち時間をかけて解決していく必要があります。また、武力戦争にはしないという前提を確認することも必要です。そしてどのような共同利用をしていくのか、二国間でできるのか、多国間で行うのか、といった様々な知恵を絞っていくべきだと考えます。
問題がこじれていく原因としては、ナショナリズムなど主観的な面によるところが大きいと思います。隣国との信頼関係が十分回復していないことが問題です。従軍慰安婦といった歴史の問題については日本側がもっと努力していくべきだと思います。もちろん、歴史的な分析としては、日本は欧米に追い込まれていったのだ、などと様々な説がありえます。しかし結果として、隣国に侵攻し、それらの国々で数百人の民間人が犠牲になったという事実があるわけです。日本が目に見える形で行動していかないと、なかなか相手国の人々の意識が変わることはないでしょう。